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伊万里の案内

伊万里「ミニ歴史」帳

私共の創業地’伊万里’について紹介します。
このページを開いてくださった方に伊万里の歴史風土を知って頂き、その事で私共の会社ビーエスティー共々親しみを持って頂ければありがたいと思っています。
伊万里市は、人口5万7千人、佐賀県では佐賀市・唐津市・鳥栖市に続く4番目に多い市の人口です。

語源

伊万里の語源は、昔、伊万という集落があり、古代条里制で伊万ヶ里となり、その後伊万里となったと言われています。鎌倉時代に書かれた「伊万里文書」に、その昔「伊万」という集落があったとされ、これが有力な説とされています。

伊万里焼

伊万里港は、江戸時代焼物の積出し港として賑わいを見せていました。有田で焼かれた赤絵や染付の磁器が伊万里港から盛んに出荷されました。伊万里から積出されたので伊万里焼と称され、古美術愛好家は「古伊万里」として珍重されています。江戸から明治にかけて、伊万里の地名は焼物の代名詞でさえありました。伊万里には、積出し港としてだけでなく江戸時代からの窯場があります。有名な色鍋島を生み出した鍋島藩の御用窯大川内焼と唐津焼の源流である椎の峯に各窯場があります。

磁器のはじまり

肥前地方で焼物が盛んになったのは、地理的に大陸に近かった事で古くからその技術が伝来し陶器は焼かれていました。磁器の生産は、文禄・慶長の役(豊臣秀吉)で朝鮮より陶工の人が日本につれて来られました。それまでは、日本には磁器の生産技術はなかったのです。鍋島氏(佐賀藩主)と日本に来た李参平が、1612年に有田の泉山に良質の磁石鉱を発見したのが、今日の有田焼の始まりです。

伊万里県

明治初期には伊万里県となり県庁が佐賀より伊万里に移されました。初代権令には山岡鉄舟が任命され、鉄舟がいたのはごくわずかで県庁は9ヶ月で再び佐賀に戻されました。

石炭

明治の末頃から石炭産業が盛んになり、第一次世界大戦・満州事変を経て昭和20年代から昭和30年代には人口は8万任を超えていました。しかし、石油エネルギーへの転換と共に昭和45年頃までに全ての炭鉱が閉山しました。

蒙古襲来

有史以来、日本が国の興亡をかけて戦ったことは幾度か有りました。その中で、最大の危機は元寇ではないでしょうか。蒙古の大軍が二度にわたり攻めてきた時は肥前北部は最大の窮地でした。博多港に向かった蒙古と高麗の連合軍が、博多上陸出来なかったので、伊万里湾内の鷹島周辺に大船団を集結させた。しかし、一夜にして海の藻屑と消えたのです。大型台風(神風)の襲来により、フビライの野望は砕がれてしまいました。

伊万里の人

  • 川原茂輔
    1859年大河内町に生まれる。25歳で県会議員に初当選、33歳で衆議院議員となり、学校を建てたり鉄道を引くなど地方発展に尽くし、ワシントン軍縮会議にも出席し、昭和4年衆議院議長に選任される。

  • 藤山雷太
    1863年二里町に生まれる。長崎師範学校を主席で卒業。上京し慶応義塾に入り、福沢諭吉のもと「天下国家のために尽くす」という志しを立てる。卒業後帰郷し長崎県議会議員を経て実業界に入る。芝浦製作所、王子製紙・大日本精糖を再建させた。東京商工会議所会頭となる。我が国産業の先駆者として活躍した。

  • 森永太一郎
    1865年伊万里町に生まれる。6歳の時、父を亡くし不遇の少年時代を送った。18歳で横浜に出て陶器の貿易商に勤める。明治21年に九谷焼の貿易商としてアメリカに渡り、アメリカ人の体格の良さは牛乳にあると感じ、帰国後、東京に森永洋菓子製造所を作り、森永キャラメルなどで代表される森永製菓の創業者。伊万里市内には森永公園もあります。

お菓子神社

伊万里神社(香橘神社)の境内に田島守を祀る中島神社があります。田島守は天皇の命により不老長寿の果を求めて遥か遠い国に渡りました(今の中国南部地方か韓国では?)。九年の歳月を経て目的の香果を得て伊万里にたどり着きました。天皇はその年に崩御されていた。田島守は香果を奉納し、帰国が遅れた事を嘆き悲しみ叫び哭死しました。

この時の香果の木が香橘神社社殿に植えられていたと言われています。残念なことに昭和の初め頃に枯死してしまいました。「香りが強く甘味のつよい実だったと言われてます」香果とは野生の橘の事で密柑の原生種とされています。境内の中島神社は佐賀県菓子同業組合の発足で、昭和31年に田島守の神霊を観講・建立したもので、お菓子の神様とされております。

※太古木の実は菓子とも果物とも呼ばれていました。米や栗で作った人工のお菓子も昔は等しく、くだものと呼び、気力回復や病を癒す薬と考えられていました。命を賭けて我が国に初めて不老長寿の霊菓・香果を持ち帰った田島守は生命を延ばす菓子の祖とされたのでしょう。
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